『12モンキーズ』
この作品は、劇場で観たときも思ったのだが、もう少しで傑作に成り得た非常に惜しい作品だと思う。私が考えるに、傑作に成り得なかった理由は2つ。
その1つは、未来の世界観がしけた「未来世紀ブラジル」レベルにとどまってしまったこと。まあ、これは予算の問題もあるんだろうけども。ギリアムの感覚が鈍ってしまったとは思わないでおきましょう。
2つ目の理由は、ブルース・ウィルスが後半、自分がいた未来世界が幻想なのか現実なのかと錯乱していくとき、観客はそれを傍観し、未来世界が現実だという意識を揺るがすことないことだ。
ウィルスは、前半、「精神異常者だという現実」を受け入れることができず、「人類が滅亡する幻想」に逃避していると思われてい� ��るのだが、後半では、「人類が滅亡する現実」に適応できず、「自分が精神異常者だという幻想」の世界に逃避していく(ウィルスが女医を愛するが故、未来世界を幻想にしてしまいたかったということもあるのだろう)。最初は、狂人として扱われていても正気だったウィルスは、最後は本当に狂っていくのである。観客をこのウィルスの現実と幻想の狭間で揺れる精神状態に同調させることができたのなら、この作品は、間違いなく傑作に近づいていたことだろう。
また、ウィルスの夢の中では、細菌をバラまく犯人がブラット・ピットだったが、現実は別の人物だった。このように、ウィルスの本当の幻想までが物語にもっと入り込んできたら、一層面白いことになってきたと思う。
悪いことばかり書いたが、それ以� �は本当によくできている。例えば、伏線が上手に張られていて、留守電の伝言が女医のものだったとか、壁の落書きも女医が書いたものだったとか、細菌をバラまくアイディアがウィルスのものだったかも知れないとか、物語をどんどん面白くしている。
また、空港で少年のウィルスを見つけて微笑む女医(彼女は、どうして微笑んだのか?)。飛行機の機内で細菌をバラまく犯人に隣り合わせた未来世界の科学者(彼女は、未来世界から来たのか?それとも過去の彼女なのか?)。こうした少し謎めいた余韻も残されているつくりもなかなか良かった。
『ドーベルマン』
のっけのCGドーベルマン(犬)が実写に変わり、主人公が教会で洗礼を受けると、乳母車に拳銃が飛び込んでくる。こうして銃の洗礼を同時に受けた主人公は成長し、真っ向からトラックに弾丸を撃ち込む。トラックは炎上し、運転手は主人公の股ぐらまで一直線に滑り込む。この後タイトルが映し出されるのだが、ここまでのオープニング10分弱を観たときは、「これは!!」と思いましたね。スタイリッシュな映像とスピーディなカメラワーク。迫力ある格好いい作品。傑作の到来だと。
その素晴らしい人生の中で誰が演奏
ところが本編に入ると、撮り方も結構普通になって、新鮮味に欠けてきて・・・。そして、リュック・ベッソンの影響か、最近のフランスのアクション作品にありがちな登場人物がみんなアホでキレてるキャラクター。もちろん、だからと言って、アホな作品とは思わないが、私はアホなキャラクターが主人公、またはその周辺にいると駄目なんです。感情移入できずにしまいに腹が立って来てしまう。こうなったら、脳天気なアクションだろうが、スタイリッシュな作風だろうが、駄目になっちゃうんです(ああ、デカプリオの「ロミオとジュリエット」を観たときの悪夢が蘇って来た・・・)。
それに主人公の活躍の場がなさ過ぎる。彼の見せ場は、 オープニングとラストだけだもの。周りの連中の方がよっぽど見せ場がある。それにどう観ても、主人公はキレた警察官の方でしょ。悪役が主役を食った「レオン」でさえ、もうちょっと主役に見せ場があったというのに・・・(この悪役の警官も「レオン」のオールドマンに負けないくらい強烈!)。だいたい監督のドーベルマンに対する愛情が感じられなかったです。監督は絶対キレた警官の方が好きだと思う。
もちろん、見所は結構あります。ラストの走行中の車からトンネルの壁にキレた警官の頭を擦り付けるところ。手流弾をバイクに乗ってる人間のヘルメットの中に入れてしまうところ。聾唖者である主人公の彼女がスピーカーの前にいた警官をステレオのボリュームをめいっぱいにして倒すところ。・・・こうしてみ ると、結構いいシーンがありますね。
映像と音に気を取られ過ぎて、ストーリーやキャラクターを語ることをおざなりにしてしまった新人監督さん。映画にはストーリーが必要なんですね。そして、迫力ある作品をつくるには、静のシーンが必要だということも忘れちゃいけません(全編迫力がありすぎてしまいに、迫力に対して不感症になってきてしまいました)。次回作でバランスの取れた演出に期待です!
『ドア−ズ』
だ−,これは。ドア−ズにもロックにも明るくない私には言う資格などないかもしれないが,はっきり言ってつまらない。音楽ばかり流れて,うっとうしいくらい場所と日付の字幕が出て。ドア−ズが歩んできた大まかな動きについては見えてくるが,ドア−ズ,ジムの内面は見えてこない。描写がとても表面的,かつ抽象的なのだ。ドア−ズについて思い入れのある人が,その思いを頼りに足りないことを補って観ていく作品のように思えるのだが,そうでない人々はどうすりゃいい?寝ちゃうぞ,おい。
『トイ・ストーリー』
今まで見たディズニー映画の中で、やっと納得いく作品に出会えたって感じですね。ディズニー在りしのディズニー映画は格調高いが退屈で、最近のディズニー映画は、ヒロインが可愛くないというか私の好みじゃない。そんな訳でどうもディズニーよりは、宮崎駿を慕っている私が、この作品だけは認めましょう。
よそ者が街に流れてくる西部劇で始まり、イヤな奴とペアを組んでロードムービーになり、最後は追っかけ活劇で締めくくるという隅から隅まで正真正銘の娯楽映画。大人も子供も楽しめます。(ちょっと褒め過ぎかな。)
全編CGだってことも忘れてしまうほど中身がしっかりしてます。ついでにオモチャじゃない言い張ってる、オモチャが人間の前だけではしっかりオモ チャしている矛盾も忘れてしまいましょう。
『トイ・ストーリー2』
●ストーリー
カウボーイ人形のウッディとスペースレンジャー人形のバズ・ライトイヤーをはじめとする、アンディのオモチャたちは、和気あいあいと暮らしていた。しかし、片腕がほころびてしまったウッディは、アンディのカウボーイ・キャンプに連れて行ってもらえなかったうえに、オモチャ屋の男に盗まれてしまう。かくして、バズをはじめとする5人のオモチャたちによるウッディの救出作戦が展開されることになるのだが、彼らの前には様々な危険が待ちかまえているのだった・・・。
食欲不振ポーシャロッシ
本作品が1作目を越えているとは言いがたいが(正直言うと、個人的には1作目の方が好きです)、本当に良くできたお薦めファミリー映画であります。CGも前作では、現実に近い映像の追求がテーマであったようですが、今回はいかにオモチャの世界を構築するかがテーマになってきている感じで、何やら余裕すら感じさせる映像であります。追求する「リアル」が「現実に近づく」ものから、「観客が感情移入できる世界」を築き上げるというものへと変化してきているのでしょう。
●前作からのパワーアップの成否
1作目は、ウッディとバズの単純なロード・ムービーというストレートなストーリーでしたが、2作目の本作品は、前作よりパワーアッ� �させようと、ストーリー・ラインも複雑になってきているのが印象的でした。そんなわけで、前作とは違い、横道に逸れたエピソードが結構出てきます。例えば、「偽バズ」やバズの宿敵ザーグの登場なんて本編とは全然関係なかったりするのです。
何しろ一作目との大きな違いは、本編中、主人公の二人が離ればなれに行動するところ。ウッディの方はメロドラマを担当し、バズの方はアクションを受け持つといったように、しっかりした役割分担がされていて、この二本立てで作品を盛り上げようとするのです。もちろん、コメディ要素に関しては、主役の二人に限らず、全キャラクターが総力上げて受け持っていおります。新キャラは新鮮な魅力で惹きつけ、旧キャラは単なるコメディ・リリーフにとどまらず、一人一つずつ� ��せ場が用意されているという親切設計であります。
ただ、この二本立てには弊害もあります。それは、アクション・シーンで得られるカタルシスが主人公の心情とシンクロしていないことです。これが私が1作目の方が好きな理由になっているのですが、メロドラマ担当のウッディの心が大きく動いたときに、アクションのカタルシスは得られないのです。一方、バズは、何の悩みもなく、脳天気にアクションを繰り広げているから、心情の変化とアクションがシンクロすることはないのです。映画の醍醐味として「心情の変化とアクションのシンクロ」をこよなく愛する私にとって、これは非常に残念なことなのです。
●大人のためのオモチャ映画
メロドラマ担当のウッディですが、こちらに「オモチャの存在価値とは 」という本作品のメイン・テーマが顔を出しております。子供が成長するに従って、捨てられる運命をたどらざるを得ないオモチャたち。こういった「オモチャの心情」というのは、まさしく子を持つ「親の心情」であったりするわけです。前作よりも説教臭さが色濃いのは、こうした親の視点から描かれたテーマがメイン・テーマになっているからなのでしょう。声が出なくなったペンギン君のオモチャの心境なんぞ、親を通り越して孫を持った祖父母の心情が入ってたりする。ですから、本作品を観て泣けるのは、子供たちではなくて、子供を連れてきた親の方だったりするわけです。ジェシーが持ち主に捨てられたエピソードなんて(暖色系の色づかいと木漏れ日のようなオーバー気味の露光でノスタルジーを煽る!煽る!)、子供� ��泣くだろうか?やっぱ、あそこで泣くのは、子供の頃、大切にしていたオモチャを捨ててしまったという過去がある大人どもだろう。
プレミアム付きのウッディが博物館行きを止め、自分の持ち主のアンディの元へ戻るのは、ストーリー展開的には当然と言えば当然のオチなのですが、私はこのオチに深くうなずいてしまいました。それは、私は「人は幼い頃に得た快感から逃れられない」と思うからです。その快感を求めて人は生きていき、それを得られた時が「幸福」な状態であると思うのです。ですから、ウッディが幸福になる道は、自分に愛を教えてくれたアンディの元へ戻ることだったと思ったわけです。
CNNアンナnicolesウィル
●映画オタクの本領発揮
ちょっと言い方が変ですが、本作品は、オモチャの世界の中に映画の世界を取り込もうとしたような作品であります。アクション・シーン全般は「レイダース・シリーズ」を彷彿させ、バズとザーグの関係を「スター・ウォーズ」ネタで笑わせる。飛行場で貨車に飛び乗るところは西部劇へのオマージュであろうし、その後のアクションは「ダイ・ハード2」。最後の糸がほつれて落ちそうになるウッディは、まんまヒッチコックの「逃走迷路」であります(思い出せないけど、エレベーターのシーンや飛行場のの荷物コンベアのシーンもどっかで観たような・・・)。とにかく、ジョン・ラセター監督の映画オタク振りが随所に観られ、映 画ファン感激の作品であるのです。
いずれにしても、本作品のように、二匹目のドジョウを狙ってつくられたような安易でない続編は大歓迎なのです。
『東京オリンピック』
1964年10月10日から始まった東京オリンピックの一風変わったドキュメント。オリンピック会場の建設現場から始まるこの作品。記録映画としてみると、不満になること請け合いである。
この作品を観ると、改めて映画づくりの基本を再認識させられる。すなわち、「何処を撮るか」「どのように撮るか」ということである。観客は、この「何処を撮るか」「どのように撮るか」といった姿勢によって、撮る者の性格・人格を知ることが出来る。それは劇映画であろうが、ドキュメンタリーであろうが関係ない。例えば、北野武の撮る恋愛ものと 深作欣二 の撮る恋愛ものを比べてみればいい。切り取る部分も見せ方も全く違う。この違いは、二人の価値観の違いを表していることに他ならない。この作品で、市川監督は作り手の姿勢を明確にし、一般的なドキュメンタリーの範疇に収まらない個性的な作品づくりに成功している。
ただ、今のテレビのオリンピック中継の映像に慣れてしまった観客にとって、それほど斬新に感じない絵もあるかも知れないが、本作品がつくられたのは、30年以上前のこと。おそらく、テレビのオリンピック中継の方が、本作品の手法を模倣していったに違いない。
作品全体を通して感じたのは、グローバルな視点でオリンピックを捉えようとしていること。カメラは、選手ばかりを追い続けているのではい。一喜一憂する観客たち。タイプライタ ーを延々うち続ける記者団。競技を支えるスタッフ。それらの人々もしっかり捉える。
また、メダリストだけを追い続けることに終始している訳でもない。例えば、一人で出場しているチャドの選手の舞台裏を追い、競技中の彼の姿と寂しく入場行進する姿をカットバックさせたりもするのだ。
ちょっと長くなるけど、ざっと私が印象に残ったことを種目別に書いてみたいと思います・・・。
■開会式
まず、競技開始までに30分を費やしていることに驚き。その中には、暗闇の中から聖火ランナーが現れるショット。富士山の横を通り過ぎる聖火ランナーのショット。開会式で入場行進をする日本選手団の後ろ姿を画面いっぱいに捉えたショット。などなど、格好いい絵が盛りだくさんだ。
■男子100M
スタート前の選手の緊張感を表現するため、選手の表情をスローモーションで捉えて、状況音をスターティング・ブロックを叩く音だけにする。この効果で、100M走は、悲壮感が漂う競技と化した。
■男子高跳び
跳躍をじっくり見せるだけでなく、次々と選手が跳躍するショットをリズミカルに重ねる。緩急のテンポがいい。
■男子砲丸投げ
選手が投げるまでの癖を延々と撮り、精神を集中させていく過程をじっくり見せる。また、重々しく地面に落ちる砲丸のアップと音響効果が素晴らしい。
■男子棒高跳び
バーを飛び越える時の華麗な「舞い」をスローモーションで捉える。洗練されたフォームは美しい。
■男子ハンマー投げ
投げ上げる瞬間を指先から足先までの捉え、いかに体全体の バランスを取って投げているかを見せる。また、悪天候で土にめり込んだ砲丸を引き抜くスタッフの仕事ぶりが泣かせる。砲丸投げと同様に、地面に落ちるハンマーのショックで飛び散る泥がパワーを感じさせる。
■女子800M
疾走する選手の足だけのアップをスローモーションで捉え、その筋肉の動きに選手たちの息づかいだけを合わせる。ほとんど競馬の馬の走りを観ているような感じです。
■80M女子ハードル
スタート前までは状況音を入れ、スタートと同時に状況音を切って、倒れるハードルの音だけを残す(それもかなりデフォルメした音)。そして、ゴールした瞬間に状況音を戻しワアッと歓声が入る。緊張感を見せ方が巧い。
■体操
大車輪では、嘘だろって感じるほどに回転する度に風を切る凄い音響効果を入れて緊張感を盛り上げる。
■女子フェンシング
競技中の映像と技が決まった瞬間にマスク(?)を取る選手の表情を何度もカットバックする。競技の内容より、選手の人柄が心に残る。
■射撃
競技時間が長いので、競技中に弁当を食べている選手をじっくり撮って、緊張感の漂う食事風景を焼き付ける。
■競輪
い� ��にも家事の合間という感じの割烹着姿の主婦たちが応援していたり、田舎のお年寄りが道端に座り込んで応援していたり、日本の田園風景の中を走る選手たちの映像を挿入したりと、当時の日本の雰囲気を見事に取り込んでいる。
■ホッケー
競技よりも喧嘩シーンをメインで撮って、活気ある競技の特徴を見せる。
■女子バレー
14対9からのソビエトの巻き返しをじっくり見せる。人気のある競技は普通に見せ、観客のニーズもしっかり意識している作り手の意図が伺われる。アートに走りながらも、エンターテーメント性を損なわないようにしているのだろう。
■カヌー&ヨット
カヌーは、シルエットで捉えられた選手の動き。でも、それだけ。ヨットは、水しぶきが飛び散る映像。でも、だだそれ� �け。カヌーとヨットは、当時それほど知名度が高くなかったのだろう。でも、10秒程度の映像やスティル写真だけで片づけられてしまう競技もあるから、それに比べれば、まだましか?
■競歩
お尻のアップと選手の表情の切り返しでコミカルに捉える。真剣にやってる選手たちが観たら、怒れるんじゃなかろうか。
■マラソン
まず、発展途上な東京の風景が映し出されるのが印象的。一番面白いのは、給水所での選手たちとスタッフの様子。給水所は、勢いよく走る抜ける選手ばかりと思いきや、止まって三杯くらいジュースを飲む選手がいたり、ジュースを飲み終えたらちゃんと口を拭く選手もいる。そして、スタッフにお礼を言ってから立ち去る選手。頭にかけるための水を飲んでいる選手。・・・今のマラソ ン競技では考えられない映像ばかりだ。
そして、スペシャル・ショットはこれ。黙々と走る選手の背景に流れる観客が映し出され、選手の体からは汗がしたたり落ちる。これをスローモーションで捉えて、孤独との闘いであるマラソンという競技の特徴をしっかり表現した。ゴールをした選手たちの傷ついた足の裏を捉えるショットの心に残る。
■閉会式
別れを惜しんで、そして感謝を込めて、白いハンカチを選手たちに振り続ける観客の映像が感動的。今のオリンピックでは考えられない。あの時代の純粋さを感じた。
とりとめもなく、印象に残ったことを書き連ねてしまったが、全体的にとにかく凄くスタイリッシュで格好いいんです。ホームビデオで我が子の運動会を撮って、自分で編集しているお父さん方� ��たくさん見えると思いますが、この作品を観たならば、一度無造作に撮るのを止めて、この作品を真似て撮ってみてはいかがでしょうか。親戚以外の人にも楽しめるものが出来るかも知れませんぞ。それでも、見せられた人には迷惑でしょうけど・・・。
『トゥルーマン・ショー』
最近、人の映画の感想を読んで、私は本当にひねくれ者だなあと感じます。評判通り良くできた本作品にも私はノレなかったんです。
映画でよく使われる、映像の中の映像(二次映像)。これは普通の映像よりリアリティを獲得できる傾向にあるのですが、本作品はその二次映像を本編として使うという大胆なアイディアに支えられた作品です。一時期、映像にリアリティを持たせるために、ドキュメンタリー・タッチの作風を取り入れることが流行ったが、本作品はそれとは別の嗜好でリアリティを獲得することに成功している。そのリアリティのお陰で、観客はジム・キャリーのキャラクターを虚構として捉えず、現実の人物として受けれることになる(少なくとも観てる間は・・・)。よって、このキャラクターにテーマ を盛り込めば、観客につくり手のテーマを伝えることが出来る。
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